
(▲ 下川町の中心街から鉱山地区へと伸びる道道354号線)
1. 鉱山の歴史
下川鉱山は三菱鉱業所有の銅山であり、黄銅鉱のほか鉄や亜鉛などの鉱石を産出した。
この地では昭和8年(1933)頃には鉱石を含む地層が見つかっていたが、本格的な採掘が行われたのは昭和16年(1941)に入ってからである。折りしも太平洋戦争が勃発した時期であり、大日本帝国の重要な軍需産業として下川鉱山は少しずつその規模を拡大していった。
戦後、昭和49年(1974)には月産3万3千トンとなりピークを迎えるが、その後は銅の自由貿易化などにより採算が急速に悪化。最盛期からわずか8年後の昭和57年(1982)には、採鉱を終了。そして翌年には休山となり、事実上の閉山に追い込まれた※1。
2. 実際に足を運んでみた
3. 40高中とは?

(▲ 下川鉱山跡の道路上に今も残る「40高中」)
この「40高中」──その標示の意味は「高速車・中速車の最高速度を40km/hに制限する」というもの。しかし私も含めて今の30代以下の人は「そんな区分聞いたことがない」という方が大半であろう。
実は大昔、車両には以下のような区分があったのだ。
- 高速車(最高速度60km):大型乗用車、普通自動車、250ccを超える自動二輪車
- 中速車(最高速度50km):大型貨物車、250cc以下の自動二輪車
- 低速車(最高速度30km):小型特殊車、原付
そしてこれらの区分は、平成4年(1992)11月に行われた道路交通法の改正によって撤廃されて今に至る。この改正により全ての自動車の法定速度が60km/hに統一され、ようやく今も皆がよく知る道路交通法の形になった。

しかしこの時、原動機付きの「自転車」である原付だけは改正から取り残された。それから数十年の時が経ち、元号が2度も変わった令和の今となってもいまだに原付の速度制限が30kmのままなのは、全てこの時のあおりである。

あ……ありのまま今起こったことを話すぜ!
『車の流れに乗っていたと思ったら、いつの間にか赤キップを切られていた(※ 一発免停)』
な……何を言っているのか分からねーと思うが……(以下略)
……などというのは原付あるある話で、原付が敬遠される主な要因にもなっている。
しかし「時代にそぐわない速度規制が~」といった議論以前に、近年のたび重なる排ガス規制※3によって原付そのものがこの世から完全に姿を消そうとしている※4。そしてそれは2020年頃に予定されているEURO5規制※5で、現実のものとなるだろう。
自動車における3つの速度区分が無くなり「40高中」がその語り部となったように、「原付」の表示もまた、古の時代を物語る道路上の遺物と化す日も近いのかも知れない。
【廃墟Data】
探訪日:2015年5月下旬
状態:道路標示は全て健在。構造物は小学校の学舎と選鉱所の基礎のみが現存。
所在地:
- (住所)北海道上川郡下川町班渓
- (物件の場所の緯度経度)44°14'35.7"N 142°40'18.8"E(40高中)
- (物件の場所の緯度経度)44°14'44.9"N 142°40'32.3"E(選鉱所)
- ※ 下記地図は40高中の場所を示す
- (アクセス)国道239号線より、町立下川病院付近を南に折れ、道道101号線に入る。700m弱進むと「下川鉱山」へと続く道道354号線への案内(青看板)が見えてくるので、その交差点を左折し、道道354号線へと入る。そのまま9km程山の中を進んでいくと、選鉱所手前の対向車線側に「40高中」の道路標示が見えてくる。