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【広見小学校】スノーボーダーが遭難・救助された廃校

【広見小学校】トップイメージ

1. 沿革

広見小学校は1884年(明治17年)に島根県の広見集落に開校した。最盛期の1959年(昭和34年)には児童数31名に達したものの、三八豪雪※1をきっかけに一気に過疎化が進んだ。わずか11年後の1970年(昭和45年)には、児童数はたったの2名となる。

そしてこの年に広見集落そのものが匹見ひきみ町へ移転されることが正式に決まり、廃村。それと同時に広見小学校も匹見ひきみ小学校へ統合され、廃校となった※2

2. 遭難事件の舞台として

それだけであれば、ここは単に三八豪雪によって見捨てられた土地というありふれた場所であった。しかしここ広見には雪に関する逸話がもう1つある。それが2008年(平成20年)に起こった恐羅漢山おそらかんざんスノーボーダー遭難事件」である。

【広見小学校】焚き火の跡が残る教室

(▲ 遭難したスノーボーダーが焚き火で暖を取った跡が今だ生々しく残る教室)

事件は2月3日の昼過ぎ、恐羅漢山でスノーボードを楽しんでいた30~40代の男性7名のグループが、立ち入り禁止区域を越えて滑り始めたことに始まる。コンパスはおろか地図すら持っていなかった彼らは当然のように道に迷い、次第に天候が悪化。日も沈み森の中をさまよっている内に、この廃校へとたどり着いた。

講堂に残されたストーブ

彼らは教室内に避難した。割れた窓ガラスは廃校にあった毛布などでふさぎ、廃材や畳を燃やして暖を取りながらひたすら天候の回復を待った。

通気口

そして事件が結末を迎えたのは、遭難から丸2日後の2月5日であった。天候が回復の兆しを見せた事で下山を再開した彼らを自衛隊員らが発見し、全員が救助されたのだ。

【広見小学校】焚き火の跡
壁の無くなった廊下 校舎外より

校舎はかなり風通しが良い。遭難した彼らもこれでは難儀したことだろう。しかし廃校から50年弱という年月と、豪雪地帯という厳しい条件を思えば、良く持っている方だと思う。

ボロボロの廊下内
昇降口より校舎内を見る
広見事業所 作業日報 昭和41年度

小学校は廃校となった後、しばらくは林業公団の事業所として使われていたようである。

校舎に残された公団関係の資料の日付と廃校時期とに食い違いが生じているが、廃校になる前から生徒数の減少で空いた教室を既に使い始めていたか、事業用に外部から持ち込んだ資料なのかのどちらかだろう。

農協の共済 1972年8月号
広見小学校講堂

講堂はベッドルームに改造されていた。

広見小学校講堂_ベッドルーム
チャンネルがねじ回し式のテレビ
公団時代のものと思われる出金伝票
広見小学校事務室

昇降口のすぐ隣の部屋。事務室と思われる。

剥がれた壁板
【広見小学校】焚き火の跡が残る教室 別角度

この環境でよく2日間も頑張ったものだ。

(→に続く)

【廃墟Data】

探訪日:2017年5月上旬

状態:末期

所在地:

  • (住所)島根県益田市匹見町匹見ひきみ広見ひろみ
  • (物件の場所の緯度経度)34°33'33.8"N 132°04'45.9"E
  • (アクセス)中国自動車道の吉和ICを降り「吉和インター入り口」交差点を右折、国道186号線に入る。3km弱進むと国道488号線と分岐するT字路に差し掛かるので、そこを右折して国道488号線に入る。この488号線は国道とは名ばかりの離合困難な山道であり、それが延々と18km程続く。2017年現在、小学校の500mほど手前で通行止めになっているので、そこから先は徒歩になる(2011年4月末~規制開始、終了時期は未定)。小学校校舎は通行止め箇所から国道を5分ほど歩いていくと、右手斜面の下に見えてくる。また通行止めの関係上、反対側の匹見町方面からここへアクセスしようとすると、裏匹見峡付近で車を降りて山道を1時間以上歩くことになる(道がゲートで塞がれており、バイクならともかく車がそこをすり抜けるのは不可能)。