
1. 概要
赤石の連山を北に望む、のどかな山あいの町にある小さな幼稚園。園児数の減少が続くなか平成24年(2012)3月末で一旦休園となり、同年4月から元園児たちは山向こうにある気田幼稚園(※外部サイト)までスクールバスで通うことになった。
この移転にあたっては、熊切の園児たちが移転先でもすぐに馴染めるように、事前に交流会や合同のサッカー教室が開かれるなどかなり配慮がなされたようである。
幼稚園はその後平成27年(2015)3月末をもって正式に閉園した。
2. 探訪

かわいげのある賑やかなシーンとは裏腹に、すっかり色あせ錆び付いてしまった窓際のなかまたち。
かつてここにあった園児たちの喧騒──そして彼らが去ってしまって久しい今の物悲しい静けさ。それら全てを物語っているかのようだ。

プールの隣には大きな体育館。下駄箱に「4年」「5年」「6年」などとあるので、近くに幼稚園とは別に小学校があるのだろうと思った。
なるほど、ではあのプールは小学生用のものだったのか。言われてみれば25mプールのそばに小さなプールがもう1個あったので、そちらが園児用だったのだろう。どおりで消毒用にしては浅いし広すぎると思った。

体育館の壁には卒園制作と思しき作品がはめ込まれていた。
小学生が作ったものにしては幼すぎる印象なので、これは園児たちのものと見て間違いないだろう。しかしこの見事なモザイク作品を素人が、ましてや幼稚園児が自らの手で創り上げたとも考えにくい。
恐らくこれの元となる絵を園児たちが描き、それを見本にして業者が仕上げたのではないだろうか。

幼稚園の前の坂を下っていくと、やはりそこに小学校があった。
後に調べてみると、昭和38年(1963)8月に写真の小学校校舎が完成した後、翌年1月に旧北校舎をリフォームして幼童部として使用したものが先ほどの幼稚園ということらしい。
しかしそれにしては園舎が綺麗だったので、場所はともかく建物もその当時のままというわけではないようだ。

校庭側から。RC造3階建ては、「集落」と言った方が近いであろうこの町の学校としては不必要に大きいように映る。しかし建築当時は今では考えられないほどの数の人がこの町に住んでおり、この建物に十分見合うだけの生徒が居たのだ。

この石碑によると、熊切小学校は明治6年(1873)に石打松下に開校した学校※1がその源流のようである。つまり平成27年(2015)に閉鎖されるまで、実に140年超の歴史があったということになる。
しかし、その間にできたいくつかの系列分校も結局は全て閉鎖されるか本校に再統合されており、今ではその熊切小学校本校さえも廃校になってしまった※2。かつての隆盛と、その後の若い世代の急激な減少──山間部の町というものの時代の趨勢を感じずにはいられない。
また、この碑にもその名が刻まれている五和分校は、現在も当時の木造校舎が廃墟となりそのまま残されている(その記事はまた後日)。

廃校直前の一年間、地元のTV局がかなり気合いを入れて取材をしたらしく、その関係だろうか。(→ 外部サイト:「山あいの小さな小さな小学校 ~浜松・熊切小 最後の一年~」)
【廃墟Data】
探訪日:2018年4月上旬
状態:健在・管理物件
所在地:
- (住所)静岡県浜松市天竜区春野町石打松下211-1(小学校)
- 静岡県浜松市天竜区春野町石打松下209-11(幼稚園)
- (物件の場所の緯度経度)34°59'54.1"N 137°56'22.3"E(小学校)
- 34°59'55.8"N 137°56'25.3"E(幼稚園)
- (アクセス・行き方)新東名高速道路の浜松北ICを降り、料金所を出て「天竜」方面へと進む。国道152号線に出るので5kmほど行くと「双竜橋」交差点で国道362号線へと接続するので、交差点を右折して国道362号線を「水窪・春野」方面へと進む。15kmほど進み気田川に差し掛かってからしばらくすると「河内」交差点に出るので右折して県道263号線に入る。6kmほど進むと県道389号線(水窪森線)と接続するT字路に出るのでそこを左折して「熊切・五和」方面へと進む。県道は250m先で大きく左に90度折れるが、そこで県道沿いに進まず右手の急坂を上っていくと右方向には熊切小学校が、突き当たりには熊切幼稚園がそれぞれ見えてくる。