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旧粟代小学校 ~廃校の桜~

旧粟代小学校 正門前

1. 概要

粟代小学校(あわしろしょうがっこう)の開校は明治6年(1873)10月。同じ年・同じ月には征韓論政変※1が起きており、西郷隆盛や板垣退助、岩倉具視といったいわゆる「歴史上の人物」が活躍していた時期である。

外観は明治期の学校建築の特徴※2を色濃く残している。同じ明治期に建てられた小学校として有名な、茨城県の旧上岡小学校と比べても屋根に本瓦が使用されるなど、より古い時代のおもむきを今に伝えている。

時が平成となって以降は児童数の減少が止まらず、平成14年(2002)東栄町は当時管轄内にあった7つの小学校すべてを東栄小学校一校に統合すると発表。その流れで粟代小学校も平成19年(2007)3月31日、その歴史に幕を下ろした。

閉校後の同年7月からは、主に子供たちを対象とした体験学習を行う林間学校「粟代・山の学校」として使用されている。また、地元有志によるコンサートなども不定期で開催されているようだ。

2. 探訪

旧粟代小学校 正門

校銘板には「愛知けん設楽したら郡粟代小學校」と旧字体でその名が刻まれている。「粟代」と「小學校」の間には不自然な空白があり、よく見ると表面を削り取ったような跡がついている。ここには恐らく「尋常じんじょう」の文字があったのではないかと思う。

昭和22年(1947)に行われた学制改革の際、それまでの「尋常小学校」は「小学校」へと名称が改められた。この時に粟代小は新しく銘板を作らず、「尋常」の文字だけを削って間に合わせたのだろう。今で言う「エコ」である。

二宮金次郎像と枝垂桜

暖かな春の陽射しの中、桜の下を歩む二宮金次郎。

枝垂桜の美しい旧粟代小学校 近景

そしてこの見事な枝垂しだれ桜……!

枝垂桜の美しい旧粟代小学校 遠景

窓枠や扉がアルミ製のものに変わってしまっている点だけが惜しいものの、瓦葺きの木造平屋に石垣・植え込み・松と来て、ここにソメイヨシノではなく学校の桜としては珍しい枝垂桜を配した当時の設計者のセンスに、私は最大級の賛辞を贈るものである。

まったく、素晴らしい!

旧粟代小学校 理科室

校舎内、理科室の様子。

旧粟代小学校 新校舎内部

中庭を挟んだ別棟(新校舎?)の内部。出入り口の扉は使用頻度が高いためかアルミサッシに置き換わっているが、それほど頻繁には開閉されないであろう窓の部分は全て木製のまま残されている。

旧校舎と新校舎の間の中庭

写真左側がその別棟。中央の中庭を挟んで右側が記事冒頭で見てきた校舎にあたる。

中庭に残されていた水車

枯れ池には石造りの水車が残されていた。これもかなりの年代物だ。

東栄町 八幡神社

学校の中庭は、そのまま神社の境内へと続いている。この辺りはちょうど良い木陰になっており、夏にここで遊び回っていた子供たちの声が今も聞こえてくるようだ。

エドヒガンザクラと旧粟代小学校校舎・体育館

都会ではありえない、広々とした校庭。

──しかしここにはもう、生徒たちの姿はない。

鉄棒とエドヒガンザクラ

桜だけが今も変わらず、今年も爛漫と花を咲かせる。

桜吹雪の中のブランコ

動くことをやめたブランコ。

無人の校庭に、静かに舞い散る桜吹雪。

エドヒガンザクラとコンダラ

隅に置かれたコンダラもどこか寂しそうだ。

旧粟代小学校 生徒たちの描いた壁画

かつて子供たちがここにいたという、確かな記憶。

やけにすね毛のリアルなカカシ

これも子供たちの作品だろうか? 足のちぢれ毛が妙にリアルだ(笑)

【廃墟Data】

探訪日:2018年4月上旬

状態:健在・管理物件

所在地:

  • (住所)愛知県北設楽郡東栄町大字振草上粟代宮平9
  • (物件の場所の緯度経度)35°06'17.1"N 137°39'02.8"E
  • (アクセス・行き方)三遠南信さんえんなんしん自動車道「東栄IC」を降り、出口を右折して国道151号線を「飯田・豊根」方面へと向かう。9kmほど行くと県道431号線「設楽したら」方面へと接続する分岐があるので、左斜めに折れて入る。そのまま県道(八橋中設楽線)を2kmほど行くと、右手に粟代小学校の校舎が見えてくる。