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【摩耶観光ホテル】麗しき廃墟の女王

1. 概要

摩耶観光ホテル(通称:マヤカン)は兵庫県神戸市にあった昭和初期のホテルの廃墟。写真の流麗な半円形テラスで名をせ、廃墟愛好家であれば知らぬ者はいなかった。その圧倒的美しさは他の廃墟の追随をついに許さず、かつては「廃墟の女王」とまでうたわれた。

日本を代表する廃墟として双璧を成していた軍艦島と同じく、摩耶まや観光ホテルもドラマや映画のロケ地としてたびたび使用されてきた(有名どころでは「デスノート」など)。また、アニメやゲームの舞台(背景)としてもしばしば登場し、特にFate/stay nightという作品では聖地としてファンに知られている。

また、摩耶観光ホテルの歴史や全盛期当時の様子、廃墟化後のてん末などについては記事の最後にまとめて紹介する。

2. 実際に足を運んでみた

紅葉の摩耶山中に眠る摩耶観光ホテル

(▲ 紅葉の摩耶山中に眠る、摩耶観光ホテルの廃墟)

摩耶観光ホテルの入り口

(▲ホテルの入り口。軍艦の艦橋のようなせり出しと丸い窓が特徴的)

4階「余興場」内部

(▲ 4階「余興場」内部。今で言う「ホール」に相当する。シャンデリアや半円形の窓がおしゃれ)

余興場内に差し込む陽の光

(▲ 余興場内に差し込む陽の光)

4階厨房

(▲ 余興場の斜向かいは簡易的な厨房になっている)

4階厨房の窓から見える紅葉

(▲ 厨房の窓から見える美しい紅葉)

摩耶観光ホテル 3階エントランスホール

(▲ 3階エントランスホール。営業初期はここがホテルの入口だった)

摩耶観光ホテル 3階大食堂

(▲ エントランスホールのすぐ横は大食堂になっている)

大食堂の出入口付近

(▲ 大食堂の出入口と受付カウンター)

「額縁の部屋」へと続く通路

(▲ 有名な「額縁の部屋」へと続く通路)

円柱の部屋

(▲ 西洋風のおしゃれな柱がある部屋。VIPルームの一室だったと思われる)

マヤカン浴室の半円形の窓

(▲ しかしこの廃墟はやはり窓の美しさだ。マヤカン以上に魅力的な窓を持つ廃墟を私は知らない)

マヤカン浴室の半円形の窓 その2

(▲ 共同浴場の半円形の窓)

マヤカン浴室の半円形の窓 その3

(▲ 同じく共同浴場の窓。葉の赤さと窓に落ちる枝葉の陰影がたまらない)

摩耶観光ホテル 4階礼拝堂

(▲ 4階礼拝堂。ハイカラなアコーディオンタイプの窓)

テラスには陽の光が差し込み、丸テーブルを明るく照らしている。窓から見える木々には、摩耶山の紅葉が赤く燃えている。

(▲ テラスには暖かな陽の光が差し込み、丸テーブルを明るく照らしている。窓から見える木々には、摩耶山の赤い紅葉が美しく燃えている)

摩耶観光ホテル「額縁の部屋」

(▲ この廃墟で最も有名な「額縁の部屋」の窓。その名の通りここには油絵が飾られていたそうだが、朽ちて額縁だけになり、ついにはその額縁すらも朽ち果てたようだ)

3. 摩耶観光ホテルの歴史

以下に摩耶観光ホテルの2021年現在に至るまでの来歴を紹介する。

当ホテルの始まりは大正14年(1925)、摩耶山にケーブルカーが開通したことにまでさかのぼる。これを契機に摩耶山は観光地として本格的に開発が進められることになった。

その開発事業の一環として、摩耶山ホテル(現在の摩耶観光ホテル)が昭和4年(1929)6月に竣工、同年11月より営業を開始。アールデコ風のハイカラな建築で、その見た目から「軍艦ホテル」と呼ばれ好評を博した。

摩耶観光ホテルの営業当時の外観

(▲ 摩耶観光ホテルの現役当時の写真。丸い窓に煙突の突き出した姿は、まるで軍艦のようだ。 - 「摩耶観光ホテルについて nk8513.exblog.jp」より引用)

しかし昭和19年(1944)2月、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、ホテルへの主要なアクセス路である摩耶ケーブルカーが運行を停止させられる。それはレールや車両に使われている鉄を軍に供出するためであった。これに伴いホテルは営業を停止したとも、山頂の掬星きくせい台にあった高射砲陣地の軍人のために一部営業を続けたとも言われている。

戦後は米軍将校のためのクラブとして整備する案が持ち上がるも、結局すぐに頓挫。ホテルは閉鎖され、その間に満州や戦地からの引き揚げ者らが勝手に住み着いたという。

摩耶観光ホテルの現役時の洋客室の様子

(▲ 現役当時の洋客室。無料タダで住むには贅沢すぎる部屋だ。 - 「摩耶観光ホテルについて nk8513.exblog.jp」より引用)

その後昭和30年(1955)に摩耶ケーブルカーが運行を再開すると、6年後の昭和36年(1961)に旧摩耶山ホテルも「摩耶観光ホテル」と名を変え営業を再開。しかし観光の主体はケーブルカーによる移動から自動車へと時代が移り変わりつつあり、奥摩耶ドライブウェイと直接接続していなかった摩耶観光ホテルは苦戦を強いられる。

そこに昭和42年(1967)の集中豪雨による土砂崩れ被害が追い討ちをかけ、ホテルは2度目の営業停止。その後は「摩耶学生センター」として施設の一部を学生のためのサークル合宿施設として開放していたものの、それも平成5年(1993)を最後に停止してしまう。

その後ホテルは再開されることのないまま廃墟となっていたが、平成29年(2017)に管理・保存に向けたクラウドファンディングが行われ、目標金額である500万円を達成。それを元に建物の調査ならびに出入口の封鎖、防犯カメラの設置等が行われた。

今後は文化財としての登録を目指しているとのこと。「摩耶山・マヤ遺跡ガイドウォーク」として、登山道経由で建物の外観だけを楽しむツアーも定期的に開催されている(上記ツイートを参照)。

要するに現在、ここはもはや廃墟ではなく観光地(有料のテーマパーク)なのだ。かつて「女王」とまで称された日本を代表する廃墟も、その幕切れは実に唐突であっけないものであった。

【廃墟Data】

探訪日:2009年11月下旬

状態:2017年に観光地化 現在廃墟ではない

所在地:

  • (住所)兵庫県神戸市灘区畑原
  • (物件の場所の緯度経度)34°43'39.6"N 135°12'45.9"E
  • (アクセス・行き方)摩耶ケーブル線「虹の駅」から徒歩30秒。以前は登山道経由でもアクセス可能だったが、どちらにせよ2021年現在は通行禁止で機械警備も導入されており、建物に近づけない。