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軍艦島上陸作戦 -Operation HASHIMA-

軍艦島(端島)3Dモデル(GoogleMaps)

(▲ 軍艦島全景 - GoogleMapより引用)

1. 軍艦島の概要

長崎県長崎市の沖合いに浮かぶ巨大廃墟「軍艦島」。正式名称を端島はしま(羽島とも)という。言わずと知れた、我が国が世界に誇る一大廃墟島である。

かつてここでは良質の強粘結炭(石炭の一種)が採れたため、島はおおいに賑わった。最盛期の昭和35年(1960)には人口密度が当時の東京の9倍(当時の世界一)にもなったという。

しかし世の中が石炭から石油の時代へと移り変わるなか、島は急速に衰退。最盛期からわずか15年足らずの昭和49年(1974)、島の鉱山が閉山し、これをもって全住民が離島した。

2. 作戦前夜

その後30年もの長きに渡り、廃墟としてずっと静かに時を重ねてきた軍艦島。しかし平成17年(2005)に島が長崎市所有となって以降、マスコミへの公開や世界遺産への登録推進活動などキナ臭い動きが続いており、島には注目が集まっていた。

そして運命の平成20年(2008)9月26日、ついに文化庁の暫定一覧表に軍艦島が記載され、世界遺産への登録まで秒読みとなった。これを受けて市は軍艦島を観光地として開発すべく、重機を島に入れて邪魔な建物やガレキの撤去工事等に着手するという。それは廃墟としての軍艦島の「死」を意味していた。

3. 上陸作戦決行

軍艦島上陸作戦 決行直前・夜明け前の某漁港

10月某日、長崎県某所。まだ夜明け前の漁港に集まる怪しげなやからたちがいた。

彼らは「軍艦島、散る」の訃報を受け、全国各地から緊急集結してきた同志たちだった。我々東京のメンバーは計6名、ここ長崎まで14時間近くかけて車で急きょやってきていた。

Operation HASHIMA ──我々にとって前代未聞の作戦が今、始まろうとしている。

軍艦島上陸作戦 視線の先、暁闇の中に浮かび上がる軍艦島(端島)の島影

時は満ちた。我々は船に乗り込み、大海原へとぎ出す。そして進路の前方、暁闇ぎょうあんの中にぼんやりと姿を浮かび上がらせてきたのは、巨大な軍艦にも似た島影だった。

この時の胸の高鳴りを、私は生涯忘れることはないだろう。

軍艦島上陸作戦 端島への取り付きに成功し、次々とハシゴを登っていく仲間たち

島への取り付きに成功する。はしごを登る後続のメンバー。

軍艦島上陸作戦 次々と上陸を果たす仲間たち

続々と上陸を果たす仲間たち。私も島を駆けながらシャッターを切るが、緊張と感動でどうしても手が震える!

鉱員社宅65号棟(報国寮)を前に立ち尽くす上陸メンバー

(▲ 軍艦島の巨大廃墟を見上げたまま動かない上陸メンバーの一人)

そしてついに……ついにたどり着いた。まごうことなき「廃墟の王」、その圧倒的な存在を前に、私を含め上陸メンバーの全員がしばし呆然と立ち尽くしていた。

軍艦島に書かれた有名な落書き(詩)「あれから幾十年! この端島は荒れるにまかせ 朽ち果て~朽ち果て~いた この島はもう再びよみがえることはない」

ふと目を横にやると、軍艦島の有名な落書き(詩)がすぐそばの壁に書かれているのを見つけた。おそらく今回の我々と同じような足取りでここへ立ち、思わず筆を取ったのだろう。

10階建て、コの字型の鉱員社宅65号棟(報国寮)

(▲ 軍艦島最大の建物である鉱員社宅65号棟(報国寮)。最初に写真で上陸メンバーが見上げていた建物を裏側から見たものにあたる)

そして、日本を飛び出して世界の廃墟をこの目で見てきた今こそ言おう。この圧倒的光景は、日本のここ軍艦島だけのものであると。世界を旅しても、こんな廃墟は他のどこにも無かったのだ。

左手には57号棟、右手には奥から59・60号棟。中央には16号棟(日給社宅)と、有名な「地獄段」の側面が見える。

廃墟ビル群はまだまだ奥へと続いている。

ここで、本土への帰投までの限られた時間のなか今後どう動くかをメンバー間で話し合った。その結果、とりあえず島を海岸線に沿って一周するということに決まった。

左手には65号棟、右手には奥から56・57号棟。65号棟から伸びる連絡橋や、五十段が見える。

島の一周を開始する。土地にはかなりの高低差があり、歩を進めていくとビル同士はしだいに縦横へと複雑にからみ合ってゆく。

軍艦島で最も有名な階段「地獄段」。この先が島の最上部「端島神社」へとつながっている。

16号棟(右)と57号棟(左)に挟まれた大階段、通称「地獄段」。島内の有名スポットのひとつだ。

この階段の先が島の最上部「端島神社」へとつながっている。島内はまともな平地が限られているため、この長い階段が子供たちのかっこうの遊び場になっていたという。

軍艦島 鉱員社宅「日給社宅」 16号棟と17号棟の間

ずっと無機質だった世界に、ここに来て急に緑が現れる。

日給社宅──島の炭鉱夫が日給制だった時代があり、彼らがここに住んだことからそう呼ばれるようになった。軍艦島で最も古い建築物のひとつである。

軍艦島 鉱員社宅「日給社宅」 17号棟と18号棟の間にはしっかりとした樹木が生えている

島の周りには樹木がなくこんな隙間に隠れるようにして生えているのは、おそらく島の外周部では激しい海風と高波にやられてしまうからだろう。

秘密の花園のような、何ともいえない幻想的な雰囲気があたりを包んでいた。

軍艦島のメインストリート「端島銀座」

軍艦島のメインストリート「端島銀座」。この通りには連日商店が立ち並び、たいへんな賑わいを見せていたという。それが今ではご覧のありさまだ。

左手前から22・23号棟、右手は50号棟。中央に見えるのは鉱員社宅「31号棟」。

しだいに迫る時間に余裕が無くなってくる。この頃までに我々は撮影ペースの合う者どうしで2名ずつ、3手に分かれて島内を行動していた(先ほど写真に写っていた白いレインコートのメンバーともあの場で別れた)。

軍艦島の南端付近を通過するメンバー

島を半周して南端部分まで抜けてきた。足早にどんどん歩を進める。

現在の第2見学広場から第3見学広場の間付近

当時我々が上陸した時点で、すでに重機による島の破壊がかなり進められていた。写真は今の第2見学広場から第3見学広場の間くらいにあたる。

軍艦島の貯炭場。丸いのがドルシックナー(選炭施設)、右手奥に見えるのがベルトコンベアーの基礎。

軍艦島の貯炭場。手前の大きくて丸いのが「ドルシックナー」と呼ばれる、水の浮力を利用して石炭を分離する設備。右手奥に並んでいる「H」は、できあがった石炭を船まで運んでいたベルトコンベアーの基礎だ。

軍艦島資材倉庫付近で談笑する釣り人と上陸メンバー

資材倉庫付近で現地の釣り人と遭遇。「東京から? 好きだねぇ~!」などと談笑を交わす。

軍艦島は炭鉱町としての現役当時から良質の釣りスポットで、休日は非番の鉱員たちが釣りを楽しんだ。廃墟となって立ち入りが禁止されてからも、暗黙の了解で日常的に地元の釣り人たちが出入りしていた。

なので昔は釣り人にふんして彼らと一緒に軍艦島へと渡してもらい、そのままスッ……と廃墟内に消えていくというのが、廃墟マニアの常套じょうとう手段であった(なお、渡し舟の船長をはじめ同乗の釣り人たちにはバレバレだった模様)。

なんというか、おおざっぱで大らかな時代だった。

端島小中学校の裏手。陥没した穴の中、建物の円柱状の基礎の下には陥没した穴には海水が入り込んでいる。

端島小中学校(写真右手の建物)の裏手。地面は盛大に陥没し、穴の中には南の島のエメラルドグリーンの海水が満たされている。水面から伸びる数多あまたの円柱との共演は、まるでいにしえの海中神殿を思わせる。

間違いなくここも軍艦島における指折りの絶景スポットのひとつだったのだが、現在この光景はもう見ることができない。なぜなら工事で全部埋め立ててしまったから……。

世の中には自然のままのものよりも、ホルマリン漬けの標本の方が好ましいと思う層が一定数存在する。軍艦島の世界遺産登録を進めた者たちも、「そのほうが儲かるから」という動機がある人を除けば、そういった人種なのだ。

それは絶対的にどちらが正しいということではなく、結局は個々人の価値観の問題だ。廃墟をどうこうする権利も私には無いのでどうしようもない。ただひたすらに残念だと思うばかりである。

奥の56号棟と手前の65号棟を結ぶ連絡橋。写真中央付近に見える階段が「五十段」。

さて、当初の打ち合わせどおり島を一周してきた我々だったが、ここで私の相方がある提案をする。

「この島の頂上には神社があるらしいな」

それは私も聞いたことがあった。残されたわずかな時間でそこへ行ってみないかと誘う彼に、私は二つ返事で答える。とりあえずコレと思う建物に2人で飛び込むも、その先は上の写真のように通路が上下左右にからみ合う複雑怪奇な巨大迷路だった。

発電所や貯炭場など炭鉱用設備が集まっている場所を65号棟上階より俯瞰する。海の向こうには長崎の先端、野母崎が見える。

やしろを目指して建物内の階段を駆け上がり、だいぶ上の方まで登ってきた。海の向こうには長崎の先端である野母崎のもざきが見える。

70号棟(端島小中学校)の7階と65号棟(鉱員社宅)の9階を結ぶ、今にも崩れそうな連絡橋

途中、こんなに素敵な場所も突っ切らなければならなかった(端島小中学校の7階と鉱員社宅の9階を結ぶ、連絡橋という名のコンクリのボロ板)。それほどまでに、我々にはもう時間が残されていなかったのだ。

軍艦島まで彼を引き連れてきた者としての責任があるのでまず私から率先して渡ったが、廃墟でここまで危険な賭けをした(させた)のは、10年以上経った今でもこの時一度だけだ。

56号棟から見上げた1号棟「端島神社」

しかしそれを持ってしてもなお、やしろまでは今一歩届かなかった……! 見上げた先には届きそうで届かない、端島神社の社の背中が見える。

「これ完全に別の棟だな」
「もう時間がない、無理か……戻ろう」

残念ながら、我々の挑戦はここで終わってしまった。後に知ることになるが、神社へ行くには軍艦島に来て最初の方で見た「地獄段」を上っていけばいい。しかしつい先ほど実際に現地を一周してきた我々にもそれが分からないほど、この島は複雑に入り組んでいたのだ。

日給社宅の16号棟と17号棟の間を上から見下ろした写真。

振り返るとそこには島に来てはじめの方に見た日給社宅があった。棟の間は上ほど広く下ほど狭いロート状の構造になっている。

これはなるべく下の方の階まで日光を取り入れるためらしいが、そのおかげもあってこのスキマでは草木が成長できたのだろう。

端島小中学校前での上陸メンバー集合写真

最後に、帰りの集合場所である小中学校前の広場にて、メンバー全員で記念撮影をした(中央のド金髪が筆者)。これがこの島での私の最後の、そして最高の一枚である。

上陸当時は一眼レフカメラを本格的に触りだしてからまだ1ヶ月も経っていない頃だった。そしてとにかく軍艦島への上陸を成功させることだけで頭が一杯になり、撮影のための島内の下調べなどろくにしてこなかった。そのため今振り返ってみると、島での私の動きや撮影はお粗末そのものであった。

むしろ引率者であるはずの私が、仲間たちの決断力や行動力に助けられていたと言ってよい。撮影のやり方ひとつを取っても、極めて時間が限られていたとはいえ、今の自分ならば遥かに効率的に撮影を進められただろう。

──しかし、肝心の廃墟の楽しさそのものはこの頃がピークだったように思う。

筆者「軍艦島行くぞ」
友人「どこ?」
筆者「九州」
友人「いつ?」
筆者「今」

とかいう無茶な要求にも文句一つ言わず応えてくれる仲間が、当時これだけいたのだ(「馬鹿じゃね?」くらいは言われたかも)。このイカレたメンバー達には、この場を借りて心から感謝を申し上げたい。

船に乗り離れていく軍艦島

出航し、島を離れていく船。さらば、我らが約束の地────

【廃墟Data】

探訪日:2008年10月某日

状態:2009年に観光地化 現在廃墟ではない

所在地:

  • (住所)長崎県長崎市高島町 端島
  • (物件の場所の緯度経度)32°37'39.6"N 129°44'17.7"E
  • (アクセス・行き方)長崎港から軍艦島へ各種クルーズ船が出ている(要予約)。値段は運行会社やコースにより、大人1名3000円~9000円程度とピンキリ。軍艦島への上陸後は、島の南端のごく限られたエリア内のみ移動できる。なお、当日の天候によっては軍艦島への上陸はおろか、出航すらできないこともある。その場合は全額返金されたうえでキャンセル扱いとなるようだ。