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旧住友奔別炭鉱 関連廃墟まとめ(北海道・地図付き)

概要・歴史

住友奔別ぽんべつ炭鉱とは、北海道三笠市にある石炭鉱山の廃墟である。「奔別」とはアイヌ語のPon小さな-Petを語源とし、現地には由来となった奔別川が今も流れている。

鉱山の始まりは明治33年(1900)で、当初は「奈良炭鉱」と呼ばれていた。その後、昭和3年(1928)に住友系の企業が鉱山を買収。以降、昭和46年(1971)の閉山までに計2650万トンもの石炭が採掘された※1

昭和46年に起きた住友奔別炭鉱の閉山時の爆発事故の様子

(▲ 閉山時の爆発事故の様子・昭和46年)

さて、奔別炭鉱を語る上で決して外せないのが、この閉山作業中に起こった爆発事故である。放棄する立坑たてこうの密閉を行なっていたところ、何らかの原因で火花が発生。それが坑内のガスに引火して大爆発を起こした。その結果、施設内で作業中だった5名の尊い命が犠牲となった※2

下からの爆風により床ごとめくれ上がったレール

(▲ 事故の爪あとが今も生々しく残る立坑やぐら内)

この時の爆発のすさまじさは、今も事故現場である立坑櫓の各所に刻まれている。地下で起こった爆発によって、線路は床ごと斜めに盛り上がり、坑口との間を仕切る鋼鉄の門(写真中央)は内側からの爆風でグニャグニャに吹き飛ばされている。

閉山作業中の事故であったため、もともと放棄する予定だった立坑櫓は再建されることなく閉鎖。そのまま廃墟になった。そして今もいくつか残る他の廃墟とともに、当時の奔別を物語る歴史の語りとなっている。

それでは以下に、住友奔別炭鉱の関連施設の廃墟を物件別に見ていこう。

1. 立坑櫓たてこうやぐら

住友奔別炭鉱の立坑櫓のアップ。正面には「奔別」の文字が躍っている。

トップを飾るのはやはりこの立坑櫓だ。この鉄塔の上におどる「奔別」の文字は、廃墟マニアであれば誰もが一度は写真で目にしたことがあるはずだ。

下の方の鉄骨は、元々はきちんと外壁で覆われていたのだが、先述の爆発事故により大部分が吹き飛ばされた。そのため危険になった外壁は全て撤去され、廃墟として迫力のある今の姿になった。

名実共に今も町のシンボルであり、これを見られただけでも奔別炭鉱の7割は堪能したと言っても過言ではない。

住友奔別炭鉱の立坑櫓内部(正面側)

(▲ 立坑櫓内・正面側)

立坑櫓とは、要するに地下の坑道まで続く巨大なエレベーターのことだ。これを使って鉱員の移動や石炭の搬出を行なっていた。

完成は昭和34(1959)年で、その翌年より稼動。櫓の高さは約51m、立坑の深さは地下約735mに達する。当時としては最先端の技術が導入されており、「東洋一の立坑」とまで呼ばれていた※3

巻上速度は最大で毎秒12m(時速43キロ)。これは一般的なエレベーターの10~20倍以上も速い※4。このレベルの速さで暗く狭い地下の縦穴を駆け抜けるのだから、乗り込んだ鉱員たちにとってはほとんどジェットコースターのようなものだったろう。

旧住友奔別炭鉱 立坑櫓内部(裏側)

(▲ 立坑櫓内・裏側。写真中央の部屋は昇降器の操作室)

そんな巨費を投じてまで作られ、完成当時は「100年採炭できる」とまで豪語された立坑櫓だったが、実際の稼動期間はわずかに10年あまりであった。

その主な原因は、昭和37年(1962)に起こった原油の輸入自由化である。これをきっかけに、石炭はエネルギーの主役の座から瞬く間に引きずり下ろされた。

また、坑道を地下深くまで掘りすぎたことで坑内環境が劣悪になり退職者が相次いだことや、系列の鉱山での事故が重なったことも大きな痛手となった※5

その結果、昭和46年(1971)に住友本社が炭鉱の閉鎖を決定。鉱山の70年余りの歴史には幕が下ろされた。

2. ホッパー(貯炭場)

住友奔別炭鉱 ホッパー(貯炭場)外観

選別の終わった石炭を列車に積み込むための施設。全長約100m、列車は3列まで進入して積み込み可能という、国内では最大級の規模を誇る。

ここで特筆すべきなのは「上の建屋が残っている」という点だ。筆者は他にも鉱山の廃墟を山ほど巡っているが、ホッパーの規模が大きければ大きいほど上半分の建物は失われているのが普通である。それがこうして残っているのは、大規模なホッパーでは他に記憶にない。

旧住友奔別炭鉱のホッパーの屋根が崩落したニュース(北海道文化放送)

(▲ UHB 北海道文化放送 より)

しかしそんな大変貴重な物件であったが、今年3月に雪の重みでホッパー建屋が倒壊したことが地元メディアにより報道された。また、同様の報告がSNS等でも相次いだ。

映像からはまだ一部残っているようにも見えるが、今後撤去・解体となってしまうのか否か、にわかに注目が集まっている。

住友奔別炭鉱 ホッパー(貯炭場)下部

こちらは崩落事故が起こる前のホッパー下部。ここに列車の荷台が並び、上の穴から落とされてきた石炭がそのまま荷台に貯まっていくという仕組み。写真からも分かるとおり、それが中央と左右の計3列で行なえた。

3. 工作場

住友奔別炭鉱 工作室

立坑櫓の建つ敷地内で、ホッパーの他に残る最後のめぼしい施設がこの工作場だ。

工作室の内部

ここでは主に炭鉱で使う機械や工具のメンテナンスが行なわれていた。今では工場に付属の機器がぽつりぽつりとあるだけで、当時の工作機械類などはほとんど何も残されていない。

4. 幾春別いくしゅんべつ市街

立坑櫓の見える幾春別市街

(▲ 「城下町」から見える立坑櫓)

先の項目で立坑櫓は「町のシンボル」だと言った。そしてそれは何も精神的な意味ではなく、このように物理的にも町のシンボルとなっている。

しかし鉱山の発展と共に大きくなった町も、今は昔──。人がまったく居なくなってしまったわけではないのだが、町に活気は恐ろしいほどに感じられない。

寂れた様子の幾春別の旧炭住

鉱山に最も近い、幾春別中島町の炭鉱住宅の様子。かつては行き交う人や車で溢れていたであろう道も、今では人っ子ひとりいない。

暖房用の煙突にたかる藤

今でも人が住んでいる部屋はあるようだが、中にはこのように完全に廃墟になってしまった所もめずらしくない。

煙突に巻きつく可憐な藤の花が物悲しさをいっそう演出している。

5. 弥生やよい市街

弥生柳町の炭鉱住宅群

こちらは奔別炭鉱の現地案内板でも紹介されていた、隣町の弥生柳町の炭鉱住宅群。草はきちんと刈られており廃墟ではない様子だが、ここもやはり活気はまったく感じられない。

6. 幾春別いくしゅんべつ小学校

幾春別小学校

(▲ 校門付近から見た校舎(右)と体育館(左))

開校は明治23年(1890)。当時炭鉱を所有していた「北海道炭こう鉄道株式会社(北炭)」が社員の子供たちのために建てた私立小学校が始まりである。

その後、鉱山の規模が拡大するにつれ児童数も急伸。最盛期には3600名もの生徒を抱え、あまりの多さに昭和23年(1948)には「奔別小学校」を新設して生徒を分割。それでも1クラスに50人前後がひしめき合った。

幾春別小学校には北炭系、奔別小学校には住友系の従業員の子供たちが通ったという。同じ高台に2つの小学校が横並びで建つという異常事態であった。

このことは当時、奔別炭鉱がどれほど栄えていたかを示す証拠に他ならない。

平成7年(1995)制作の記念碑(幾春別小学校)

(▲ 平成7年(1995)制作の記念碑。銘板には「未来を開く手 郷土を踏みしめる足 この子らに光あれ」とある)

しかし隆盛を極めた炭鉱も昭和46年(1971)に閉山。それから4年後には分離していた奔別小学校が再統合され、その後も生徒数は減っていった※6。平成17年(2005)には写真の校舎(旧幾生中学校の校舎)へ移転、平成22年(2010)に閉校。

閉校時の生徒数はたったの23名だった。これは全盛期のわずか0.6%にまで落ち込んだという事である。炭鉱町というものの時代のすう勢を感じずにはいられない。

7. 唐松とうまつ

唐松駅駅舎 プラットホーム側より

奔別炭鉱で採れた石炭を大都市(ひいては港)まで運んでいた路線である「幌内ほろない線」に残る駅のひとつ。本路線は今では全線が廃線である。

これより炭鉱側にあった弥生駅・幾春別駅は現存しないため、この唐松駅が現存する炭鉱に最も近い駅となる。

かつては写真中央のホームに溢れ返るくらい人がいたというが、炭鉱の衰退と共に旅客・貨物共に利用が激減。昭和62年(1987)に廃駅となった。

8-1. 旧鉱山施設・ボイラー煙突

旧鉱山施設 ボイラー煙突

奔別炭鉱のホッパーのさらに山側の斜面には、立坑櫓ができる前に使われていた旧施設の遺構を中心にいくつかの廃墟が残されている。

これらに関してはロクな情報がないため、詳細がはっきりしない事が多い。しかし写真のような煙突は、筆者は他の鉱山でも見たことがある。これは恐らくボイラー用の煙突だろう。

他の鉱山と用途が同じならば、ここで鉱山施設や町全体にお湯や暖房用の蒸気を供給していたはずだ。もし動力用のボイラーならば、ポンプや捲上機を動かしていたと思われる。

8-2. 旧ホッパー

旧炭鉱施設 ホッパー下部

石炭を積み出すための設備。全長は10mそこそこ、列も1列だけと、立坑櫓ができてからのホッパー(雪で屋根が倒壊した先述のホッパー)と比べると嘘みたいに小さい。

ホッパーの大きさというのはそのまま鉱山の採掘能力を表すので、「東洋一」の立坑を擁した炭鉱も最初期はこの程度の規模だったのかと、はるかな昔に思いが馳せられる。

ホッパー下部に溜まっていた石炭

足元には積みそこなってこぼれたと思しき石炭が黒く輝いていた。

奔別炭鉱名物「石炭ザンギ」

ちなみにこちらは現地の売店で売っていたから揚げ「石炭ザンギ」だ。その名のとおり石炭を模していて真っ黒いが、見た目に反してまったく苦くはなく美味しいから揚げだった。

鉱山がなくなった今、三笠市は旧炭鉱町であることを生かした観光業で復活を果たそうとこのように色々と努力している。

8-3. 斜坑捲上まきあげ機用の土台

旧鉱山施設 斜坑捲上機土台

これは炭鉱のベルトコンベアーを動かすための動力(捲上機)が設置されていた設備である。ベルトコンベアーは斜めに掘られた坑道の中を通っていて、その上に掘り出した石炭を載せて外まで運んでいた。

当然、この施設の先をたどっていくと当時の斜坑が口を開けているはずだ。しかしご覧の通り、この季節では藪が深すぎてそこまでの探索は残念ながら叶わなかった。

8-4. 変電所

緑のジャングルと化した変電施設跡

発電所から送られてきた高圧の電力を、各種機器の使用に適した電圧まで下げるための施設。

今では内部が一面の草木に覆われている。

旧炭鉱施設 変電所内部(1階)

一方で、設備の制御や測定を担っていたと思われる付属の2階建ての建物は、まだかなり原型を保っている。

電機関係の記録が刻まれたロール紙

2階には、恐らく電機関係と思われる何らかのデータの経時記録が残されていた。

8-5. 排気ブロアー建屋

住友奔別炭鉱 排気ブロアー建屋

坑道内の空気の入れ替えを行なっていた施設。建物から上に飛び出ている極太の円柱を通じて、莫大な量の換気がされていた。

8-6. 安全灯室

住友奔別炭鉱 安全灯室外観

坑道内で使うヘッドライトの充電を行なっていた施設。鉱員はここで充電済みのライトを受け取り、坑道の中へと入っていった。

廃車と植物の楽園と化した安全灯室内部

内部は今では緑と廃車の楽園と化している。

「自然への回帰」

中の廃車はほとんど自然に還りかけていた。

ひとたび人類がいなくなれば、夜空に輝く星々にまで到達した我らの文明の栄華を伝える物など──何ひとつ残りはしないだろう。

(旧住友奔別炭鉱 完)

【廃墟Data】

状態:選炭ホッパーの上部建屋が倒壊。他は健在。

難易度:★★★☆☆(普通)

駐車場:なし。ただ往来はあまりなく道も広いので、適所に駐車スペースを見つけることは難しくない。

所在地:

  • (住所)北海道三笠市奔別町260(立坑櫓)
  • (物件の場所の緯度経度)43°15'53.1"N 141°57'34.2"E(立坑櫓)
  • (アクセス・行き方)道央自動車道「三笠」ICより、道道116号線経由で約16分(12km)