1. 概要
ホテル藤原郷(ふじわらごう)とは、群馬県みなかみ町にある温泉旅館の廃墟である。ダム観光の旅行客に向けたホテルとして、藤原ダムの完成と同時期に開業した。
当初の経営は順調であったが、バブル崩壊後は一転して経営難におちいった。その後発覚した温泉の偽装問題がとどめとなり廃業。現在は群馬県でも指折りの心霊スポットとして知られている。
1-1. ホテル藤原郷の歴史
(▲ 利根川をせき止めてできた藤原湖と、ホテル藤原郷(中央下))
利根川の歴史は工事の歴史でもある。もともとは東京湾に流れ込んでいたが、江戸を水害から守るために、数度の工事を経て東へと流路が変えられた。明治に入ってからも足尾銅山の鉱毒対策のため改修されるなど、大規模な工事が続いていた。
しかしそれらの努力を持ってしてもなお水害は抑えられず、昭和22年(1947)には利根川水系で過去最悪レベルの洪水が発生。これを受けて利根川に計9基のダムを建設する案が浮上し、その栄えある第一号として計画されたのが藤原ダムだった。
こうして昭和34年(1959)に完成した藤原ダムは、藤原集落にあった159戸もの家々を水没させた。しかし地元の有力者であった林賢二氏はタダでは転ばなかった。逆にこのダムを観光資源として村おこしをしようと、同年10月に「藤原湖温泉」を開業。これが後のホテル藤原郷となる。

(▲ ホテル藤原郷の温泉利用許可証。ホテルで使用する温泉を「湯ノ小屋温泉の2号源泉」としているが、これらはすべて偽装であった)
開業後に起こったスキーブームにもちゃっかりと乗り、ホテル藤原郷は大いに繁盛したという。現地に残る落人伝説を題材とした料理「ざるめし」を看板メニューとして開発するなど、営業努力も実った。
しかしその後スキーブームは終わり、バブル崩壊も重なって苦しい経営を強いられる。さらに平成16年(2004)には温泉の偽装が発覚する事件が発生。実際にはただの水道水を沸かして温泉と称しており、これ以降客足は急速に遠のいた。
それからわずか3年後の平成19年(2007)にホテルは倒産。藤原湖のほとりには今も廃墟となったホテルが佇んでいる。
1-2. ホテル藤原郷の心霊現象
2. 実際に行ってみた


(▲ この写真は境界線を左右に動かせます。営業当時の写真はyamahabikers.web.fc2.comより引用)
ホテル藤原郷の正面までやってきた。出入口をふさぐように生えた大きな木が、放棄されてからの長い年月を偲ばせる。

フロントでは他に「藤屋ホテル」の当時のオーナーのものと思われる名刺を見つけた。やっぱり同じみなかみ温泉同士、こういう付き合いがあるんですねぇ。
ちなみに現在、この藤屋も安定のド廃墟である。詳しくは後日、別の記事にて改めて紹介する。
(▲ ホテル藤原郷公式サイトより引用)
こちらは現役当時のホテル藤原郷の公式ページ。冬はこの通りスキー客をメインに呼び込んでいた様子が窺える。
しかしスキーがもはや国民的オワコンになっていて、関連する廃墟が量産されまくっているのは過去の記事でも述べた通りだ。地味にここもスキー関連の廃墟だったんだね……

ここの看板料理がこの「ざるめし」だった。鎌倉時代のはじめ、源氏との戦いに敗れた奥州藤原氏は、この地に落ち延びてきたという(これが「藤原」の地名の由来となった)。その落人たちが食べていた食事を再現したものが「ざるめし」らしい。
ちなみに奥州の安倍氏という豪族が落ち延びてきた地も同じ水上温泉郷にあり、その末裔が経営していた「本家旅館」なるホテルがある。そしてここも安定のド廃墟なので、本ブログでも近く紹介したい。
(▲ 営業当時にホテル藤原郷で提供されていた「ざるめし」の写真 - ブログ「四季と遊ぶ」より引用)
ざるめしの材料には近くの山で採れる山菜やキノコが使われており、見るからに古きよき日本の食卓という感じだ。ざるを器に使っているのも、戦いから命からがら逃げてきたため食器がなかったからとされている。


(▲ この写真は境界線を左右に動かせます)
(▲ 現役時の写真は利根川水系上下流交流ホームページより引用 ※プライバシー保護のため画像の一部をモザイク修正済)
食堂の真上(2階)は大広間になっていた。
それにしても、こんなに大勢の客で賑わっていた時代もあったのかと本当に驚く。これが最後には誰にも見向きもされなくなり、廃墟となってしまうのだ。時代の移り変わりという物の残酷さを感じる。

この部屋はホテルの閉鎖後にオーナー家族に再利用されていたのか、オーナーである林賢二氏の写真が飾られていた。これは 昭和天皇が崩御された際の「大喪の礼」(一般の葬儀にあたる)で撮られた写真のようだ。
……た、大喪の礼……だと……?
皇室の重要な公式行事に招待されるとか、このオーナーいったい何者……?

日本遺族会から受け取った表彰状を掲げるオーナー。何かメッッッチャ見覚えのある門の前で撮影しとるな……これは間違いなく靖国神社だ。
この部屋に残されていた資料などを見ると、どうもこのホテルのオーナーは戦時中に近衛歩兵第二聯隊に所属していたらしい。近衛師団といえば、 天皇直属の超エリート部隊である。
兄は南方のニューギニアで戦死、弟も軍に招集され広島で被爆した。同級生たちも実にその3分の2が戦死。そして戦後は戦友会にあたる「近歩二会」の群馬県支部長を務め、散っていった仲間たちの慰霊に尽力するなど、大変な功労者であったようだ。

やんごとなき方の御真影が、他の写真や賞状よりも上に飾ろうとしてちょっぴり窮屈なことになっている。近衛師団の元兵士なので当たり前といえば当たり前だが、オーナーさん本っっっ当に 天皇陛下のこと好きすぎでしょ🤣🤣🤣

写真の日付は1975年3月となっている。みんな着物を着ているので、初孫のお祝いでもしたのだろうか。
それにしても、こういう家族写真とかって大切なもののはずなのに……。賞状とかも全部放置だし、オーナーさんやそのご家族は今どこでどうしているんだろうか。
(▲ この写真は自由にグリグリ動かせます)
216号室の内部。確かに、他の部屋と比べてもこの216号室だけが異様に状態が悪い。
(▲ この写真は自由にグリグリ動かせます)
参考までに、同じ廊下の並びにある213号室の様子がこちら。部屋の造りも天井がはがれ落ちている点も216号室と同じなのに、雰囲気がまるで違う。
なるほどね、これなら「216号室には何かある」と思われるのも無理はないだろう。

うわ狭っ! なんじゃここ、独居房かよw
大きさはビジネスホテルのシングルルームとさほど変わらないと思うが、洋室から和室になっただけでこんなにも印象が違うのか……。時代とはいえ、仮にもスキーリゾートを標榜する温泉旅館で、この部屋が出てきたらヘコむなぁ😅

廊下の一番奥の部屋だけはそれなりに広かった。しかしこの部屋には、それとは別の問題が……明らかに「住人」がいますね、ここ。それもたった今出て行ったばかりかのような……
私としても生活がかかっている人の邪魔はしたくないので、これ以降は手早く探索を終えて切り上げることにした。

しかし、はて……「露天風呂」とはいったい……? 営業当時のホテルのパンフレットにはしっかりとその姿が写っているのだが、同じものが敷地内のどこにも見当たらない。
とは言え、内風呂の名前はパンフレットと同じ「熊笹の湯」とあったし、途中から露天風呂が内風呂に改装されたのかな? と現地では思っていた。
(▲ ホテル藤原郷(右)と 旧嶺紅館(左)の様子)
そして、その嶺紅館というのが画像左手の建物で、どうやらここにパンフレットの露天風呂があったようなのだ。今ではごらんの通り他人の手に渡っており、現オーナーと思しき人物がパラソルの下でくつろいでいるのが見える。
ちなみに「静魂宮」の方は右奥の森の中にあり、こちらは俗に言う秘宝館と同じ趣向の施設だったらしい。
こちらへも足を運んでみたが、明らかに嶺紅館の現オーナーにより整備されており、今の嶺紅館と同じく廃墟ではないと筆者は判断した。よって、今回の探索は以上である。
【廃墟Data】
状態:2022年6月に火災があり一部損傷
難易度:★★☆☆☆(低)
駐車場:近隣の駐車スペースを利用(→地図)
所在地:
- (住所) 群馬県利根郡みなかみ町藤原2504
- (物件の場所の緯度経度)36°50'12.0"N 139°03'02.2"E
- (アクセス・行き方)
【自家用車】関越自動車道「水上IC」より、国道291号線→県道63号線(奥利根ゆけむり街道)経由で約30分(17km)。
【公共交通機関】JR上越線「水上駅」で降りて、「湯の小屋」行きのバスに乗り換える。約30分後、31駅先の「宝川入口」にて下車。バス停から徒歩約1分。